別に語彙力や国語力が特段秀でているわけでもない自分が、言葉とどう戯れていくべきか分からなくなった時には、
かの有名な魔の質問
「ミキミキ・ツンパ・カルテイハ?」
の最適解を必死に模索した小学生時代を思い返す様にしている。
「ミキミキ・ツンパ・カルテイハ? イエスか、ノーか、半分か?」と周囲に問いかけて回る謎の遊びが、昔小学校で流行っていた。
この言葉を投げかけられたら最期、
基本「イエス」「ノー」「半分」のいずれで返答しようが、相手側に都合のいい様に解釈されて
「へんたーいww」
とマウントをとられなくてはならない地獄のクイズ。
こんなものはクイズとして論理的に成立していなくとも関係なし、ただ相手を「パンツ履いてない奴」認定してやりたい欲求から生み出された不条理の塊。
それでも何とか、物理攻撃とかではない正当な方法でこの無益なやり取りから脱却すべく、
「ミキミキ・ツンパ・カルテイハ?」の"模範解答"を見つけようと試みたあの頃の、言葉と真摯に向き合う姿勢こそが、今もなお言葉遊びをする時にとるべき姿勢なのではないかと思う。
出題者側の人間は自分の脳をまともに働かせる事もなく、既存のフレーズを呪文のようにひたすら唱えているだけ。そのくせ最終的に「俺が巧みに日本語を運用してこいつに【変態】というラベリングをしてやった。俺こそが国語の達人だ」面してくる。
それに対して、こちらはデフォルトで劣勢の立場にいながらも、足りない語彙や言語センスをやりくりして何とか立ち向かおうと頭を捻る。そのくらいの姿勢。
そこで導き出す答えは、決して非情なる現実から逃れる突破口になる程に高尚ではない。
ただ、自分の脳を言葉の世界としっかり繋げている。言葉達と戯れているという実感がある。それが言葉遊びの真髄ではないだろうか。
ちなみに自分は、「イエス」を逆さ読みした「スエイ」を最終的に回答として導き出した。
これは、普通に「イエス(パンツ履いてるよ)」と答えてしまった時に100%発動する
「えー、『ミキミキツンパカルテイハ?』に『イエス』って事は、逆にすると、『キミキミパンツハイテルカ?』に『ノー』って答えた事になりまーす(謎論理)。へんたーい」
なる攻撃を上手く封じる回答である。
まあ結局この「スエイ」を引っ提げてルーティン地獄に臨んだ結果、
「よく分からない」とのことで、ルーティン敗北・ルーティンノーパンツ。
でもこれでいい。ずっとこれでいい。
P.S. 道端で見知らぬ子供から「ミキミキ・ツンパ・カルテイハ?」と聞かれ、満面の笑顔で「そうです、私パンツを履いておりません!」 と叫んで大人の威厳を見せつけるも、子供に即逃げられ地元の「不審者情報」に掲載される、でも電子掲示板の「事案で打線組んだww」へのメンバー入りは逃すというおじさんが今後現れる可能性、いや既に存在した可能性も0ではない。