虚シコウ

粗い構成!薄い内容!ほとばしる素人意識!AI社会で虚快に暮らすヒント!

上を目指さぬ空虚な人間の哲学集

自分の過去の日記を見返すと、競争社会が社会人に求める気概のカケラもないような思想を綴った文章がいくつも発掘された。

情熱みなぎる文章を書いている日も一定数あるのだが、4~5年前、つまり高校生だった頃の日記には特に、社会的に到底褒められたものではない自分の哲学を偉そうに繰り広げていた。

それらは意識の低い人間がどういう哲学・志向のもとで空虚に生きているのかを理解する一助としての役目を果たす良い記録なのではと思い、以下に抜粋・羅列しておく。

 

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1歩ハズす。

完璧なシコウを求めない。

元々完璧なものを作れないのなら、初めから作ろうとしない。

50100にしようとは努めず、如何に50を魅力的だと思わせるかを考える。

 

わざと正統派からズラす人は世界に数多い。

ただその際、完璧なモノあるいはそれに近い高品質なモノを否定する事例が多い。

自称サブカル好きや自称コアなオタク、個性をアピールしたいセルフプロデュースの塊みたいな芸術家気取りにこの傾向は多い。

僕はそれはしたくない。

基本的に高品質=高評価 という価値観の世界の中で、意味ありげにヒビの入ったモノを披露するから活きるのだと思う。

この価値観を否定してしまうと、駄作はただの駄作。

 

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「はい負けました」から入ろう。

周囲の人間がとにかく俺が勝つ俺が勝つとうるさい。声ではない、気が外に多分に漏れている。

こんな環境下では、「上手に負け屋」の方が重宝される気がする。

周りのやる気が高ければ自分のやる気を落とし、その反対なら気張る。これが最善手なのかもしれない。

 

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評価を上げるより、新たな評価基準を生み出す。

評価を上げることよりも新たな評価基準を生み出す方がカンタンであるから。

510にするために必要な労力の一部を使って、5を「これは素晴らしい5です!」とアピールする。

 

現在、多くの優秀な人は"10""戦おう"とするからこそ、案外このシコウ法は抜け道として有効に機能する。

ただこの際、大元の評価基準を変えようとはしない。

あくまでも10が最高評価であるという従来の基準を、不動たるものとして尊ぶ。

その基準のちょっとハズレに、自分にとって優位に働く基準を"添えて"おく。

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将来性があるのは、「低品質」。

 

「高品質の追求」をコンセプトにすると、益々進化し続ける時代に合わせて学習し続ける必要があり、大変。

高品質な技術や作品の開発に奮闘する人が居る限り、低品質はトリッキーであり続けられる。つまり、頑張っている周囲の人間を見れば見るほど、「低クオリティの将来は安泰だな」と思うわけです。

 

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トーナメント戦というものは、やはり最初に負けた方が楽だな。1つ勝ったら1つ仕事が増えるだけだ。

 

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錆びた刀を与えられた時、一生懸命磨いて品質をあげるか、"古き良きアンティー"として売り出そうとするか。

僕は後者側の人間なんだと思う。

 

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...今回はこの辺で。